昨日織田信長の子孫のことを書いた際に、今月21日徳川美術館で公開される珍しい織田信長の書状が目に付いた。珍しいとは、信長の朱印の付いた公式書状で、当時の部下の秀吉のことを「はげねずみ」と書いていること。
思い出しながら日本史を書けば。。武田、上杉などが暴れる戦国時代に尾張から頭角を現した織田信長。その部下に木下藤吉郎(当時のあだ名は サル )から這い上がった後の太閤秀吉が居た。彼が信長の助力で地方の城主になった頃、秀吉の妻、おね が信長に土産を持ってきた。そのときの印象を信長がおね宛ての書状に書いている。おねが以前よりも美しいとほめた後、おねに不満を漏らす秀吉を「はげねずみ」とこき下ろし、秀吉にはもったいないと書いている。信長は天下統一を前に、明智光秀の謀反に自害し、天下統一は、そのアダを討った羽柴秀吉、後の豊臣秀吉に引き継がれていく。おねはその秀吉の正室でありながら子宝に恵まれず、それに引き換え,後から来た側室の淀君がポンポンと男の子を産む。その確執が秀吉亡き後も尾を引いて関が原の合戦にまで影響する。この辺が女太閤記のネタになっている。その後日本は徳川時代という長い安定期に入り明治時代につながっていく。書状は1580年頃のもの。ほんの少し前の話。
写真は信長の現代風な肖像画と、最近、子供をぽんぽん11匹も生んだ猫のお母さん。世界記録は16匹らしい。
この二つの写真を並べる強引さにバンザイ!さらについでに、黒髪が淀君、かぶりものがおね。
3 Comments
わぁ
すごい数の赤ちゃん
お乳足らんやん
女同士の確執は いつの世でも恐ろしい ^^;
秀吉は 無類の女好きであるにもかかわらず、淀君しか、子供授からなかったから、いろんな説がありますね(笑)
まさに はげネズミ、貧相な男でも、大公にまで上りつめながら、女の確執を止めれなかったのが 失敗の元。
一度に11匹!
お乳の取り合い。これも生存競争になるのかしら(。◔‿◔)
今日は 多い者わ 何でも 好いですね ねね 様 凄く偉かった そうですね
人 オツパイ 2こ 猫 見ました 6個 ですね 子猫 6匹 定員 ですよ ねーーー