事実は事実として、、。

mimana 韓国・慶尚南道金海市の仁済大学校で考古学を専攻する学生5人が1月8日、神埼市郡の吉野ケ里遺跡で発掘作業の実習をした。、、発掘現場は、弥生時代から古墳時代にかけて庶民の住居があったとされる一角。、、,博物館員を目指すという李多濫(イ・ダラン)さん(20)は「日韓の土器がよく似ていることにあらためて驚いた。、、 」

と言う記事を読んで苦笑するしかない。土器が似ているも何も、韓国の学生は3世紀から6世紀にかけて、そこの地域に日本の大和朝廷の領地 任那(みまな) のあったことを教えてもらっていないようだ。それは日本側も同じで、考古学的には事実なのに歴史教育からは外れてる。

この事実を理解しないと、なぜ半島のこの地域に日本独自の前方後円墳がたくさんあるのか理解できない。また最近の科学では、ここで出土する大量の ヒスイの勾玉(マガタマ) の成分から日本の糸魚川地域産出のものだと断定が出来ている。韓国はこういう事実も認めたくないのだろうか?(朝鮮半島ではヒスイは産出しない)

この地域の歴史の途中まで書けば:、、(参照元

このころ、朝鮮半島は、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、任那(みまな)の4国があった。任那(みまな)は、大和朝廷の支配下にあったと思われ、日本の植民地であった。この任那(みまな)は大和朝廷にとって、中国の文化を取り入れるための玄関(げんかん)として重要な役割を果たしていた。 562年に新羅(しらぎ)によって、この任那(みまな)がほろぼされると、大和朝廷の大王(おおきみ 天皇のこと)にとっての目標はこの任那(みまな)を取りもどすことになった。 摂政(せっしょう)になった聖徳太子(しょうとくたいし)も、自分の弟の来目皇子(くめのおうじ)を将軍として、任那(みまな)を取りもどすために軍を出兵したが、来目皇子(くめのおうじ)の病死により失敗に終わった。、、。

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2 Comments

  1. 案山子
    Posted 2010年1月15日 at 3:07 PM | Permalink | 返信する

    ひえーはずかしかー 先ほど有難う御座いました  伝染病 頂かない内 消しました

  2. よりばば
    Posted 2010年1月16日 at 4:30 AM | Permalink | 返信する

    15年ほど前子供と訪れました。まだ高床式の穀物の倉と物見やぐら、外柵くらいでしたが、「魏志」倭人伝に描かれた物見櫓、城柵、宮室、邸閣などセットの発見はここだけということで、卑弥呼・邪馬台国はこの地ではと、見学者で賑わっていました。国同士の過去の歴史も、私情抜きで正確に事実を教えてもらいたいものです。日本の学校でも!

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