北千島占守島の戦いと領土 教科書に無い歴史

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太平洋戦争で日本の降伏後にソ連軍と日本軍が交戦し、双方に多数の死傷者が出た千島列島最北端のシュムシュ島(占守島)に残る 旧日本軍の戦車を、ロシア極東サハリン州が「歴史的な文化遺産」として今年9月を目標に州都ユジノサハリンスクの州立郷土史博物館で 展示する計画を立てていることが2月27日、分かった。

post-1205693189 ロシア側の意図は不明だが、日本が攻めてきたという既成事実を造りたいのだろう。この戦闘の実態は、、。 左右は島の北端 ソ連軍上陸地点の竹田浜に近い丘の上の日本軍戦車:97式中戦車の登場したのは1938年の短砲身主砲57mm 装甲厚は同様に25mm、エンジンはディーゼル200馬力 重量は約15トン。戦闘参加 戦車64両(1式中戦車或いは97式中戦車改19両、97式中戦車20両、95式軽戦車25両)。守備隊は 第91師団(旭川)に所属し、兵士にはノモンハン、ガダルカナルを生き抜いた兵士が多くいた。 米軍上陸を警戒して、当時としては例外的に弾薬は豊富に持っていた。霧の竹田浜で敵上陸部隊に突撃を敢行した戦車隊の池田末男連隊長は、師団、旅団の両司令部に最後の打電をします。「連隊はこれより敵中に突撃せんとす。祖国の弥栄と平和を祈る」 これを最後に戦車27両と共に連隊長以下96名が玉砕し、上陸部隊の内部侵攻を食い止めました。連隊長は日本の敗戦に際し、すでに自決を覚悟し、軍人の本懐を遂げたと言われています。上陸前のソビエトは、占領島制圧は1日で出来ると豪語していたそうです。

1945年(昭和20年)8月15日の天皇の詔勅により表面上戦争は終わったが、南方戦線では終戦も知らずに死闘が続き、日本の固有領土の一番北の端、北千島の占守島(シュムシュ島Shumshu Island,Шумшу)で沖縄に次ぐ陸上決戦が行われていた.。時系列で追ってみると、、。

Shumshu - Google マップ_1267300690862 ソ連が1946年まで有効な不可侵条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告をおこなったのは1945年8月9月。二つ目の原爆が長﨑に落とされたその日(広島8月6日)であった。8月14日には中立国経由で日本は降伏の通達を出し、15日に玉音放送が流れ、日本軍内部では8月17日付けで「一切の戦闘行動停止。止むを得ない自衛行動を妨げず。その完全徹shumushu底の時期を18日16時とする」との終戦処理指示が各方面の日本軍に発令されていた。しかしソ連軍は16日に樺太へ侵攻、終戦による武装解除の準備を進めていた占守島の日本軍(約8000名)に対し、8月17日の午後11時57分に突然海峡を挟んだカムチャッカ半島ロパトカ岬砲台のソ連軍15cmカノン砲が砲撃を開始し、日付の変わった18日午前1時、カムチャッカから南下したソ連軍攻略部隊(計8363名、火砲218門、総数54隻からなる艦艇部隊)が突如、艦船からの猛烈な砲撃の下に奇襲上陸攻撃を仕掛けてきた。攻撃を受けた直後は米軍かと思い、それがソ連軍だと分かり驚愕したと言われている。 この時期千島列島周辺では、本土防衛の為に引き上げる日本軍が米軍からの攻撃は受けていたが、日本は不可侵条約を結んだ相手であるロシアに対して攻撃の意思は無く、されるとも思っていなかった。終戦の喜びもつかの間に、 やむなく守備隊は武装を整え直し、自衛戦闘を行い、戦闘は激烈を極め、18日、ソ連軍は一時、浜から四嶺山まで進出したが、池田末男中佐(戦死)率いる第11戦車連隊(通称『士魂部隊』)の反撃などによって多大な損害を出して竹田浜方面に敗退、、地理的に日本軍が有利な状況で、上陸部隊を殲滅出来る体制だったが、ポツダム宣言受諾後の戦いであり、自衛を目的とした戦闘であったため、日本側は上級の第5方面軍の戦闘停止命令に従い停戦を求め、白旗を揚げた日本軍使が攻撃され18日16時戦死する中、再度19日軍使を派遣して停戦交渉を行い8月21日に局地停戦協定が締結、その直後まで続いた守備隊最後の戦闘が終結、23,24日で占領島守備隊は武装解除する。双方の損害は日本軍の死傷者約600~800名、ソ連軍の死傷者約3000~4500名(ソ連側資料では日本側死傷者約1,018名、ソ連側約1,567名)におよび、その後日本兵はシベリアへ抑留された。、北の果てで戦には勝ったがすでに国は負けていた。(ソ連軍の攻撃時間については、18日午前2時35分から約25分間にわたってロパトカ岬の海岸砲合から砲撃が開始され、それまで全く気付いていなかった日本軍守備隊に行動を暴露する結果になり、そのため十分に装備の陸揚げが出来ないまま攻撃に入り、沖の艦船が日本側の砲撃にさらされた。18日午前4時22分、護衛艦艇の支援砲撃のもとで先遣隊の第一波が竹田浜に上陸を敢行さらに第二波、第三波と濃霧の中揚陸したのち激しく抵抗する日本海軍要塞郡をかわしながら島の内陸部に前進を開始したという記述もある。いずれにしても海を挟んだ砲台から上陸前に砲撃したため日本軍に奇襲を知らせる結果になった

ロシアとしては、ヤルタ会談で終戦処理として千島を獲得する秘密協定を米英とかわしてはいるものの、米国が本当に引き渡すか疑心暗鬼で、そのため終戦後の18日、占守島に対し実力行使に出たというのが一般的見方です。すでに16日には樺太で戦闘が始まり、住民の自決や死者が発生しています。ソ連軍に、極東方面の総司令官A・M・ヴァシレフスキー元帥から北海道上陸を見送る内容の暗号電報が出たのは8月22日だったが、終戦の15日以後に後死亡した住民、兵士が数多くいる。2010年ロシアが大戦終結記念日を9月2日に決定する

8月16日ロシアが米国へ北海道の分割を求めてきた事実から、この5日間(戦闘期間3日)の戦闘が無ければ米軍より先に北海道に乗り込み、全域を支配し、日本が現在の朝鮮半島のように南北に分断となった可能性があります。また、僅か240平方キロの占守島に3000人以上の死者を出した事で北海道上陸を断念したとも言われますが、実際には米軍が日本全土を制圧後、どこよりも先に北海道に兵を送り込んだ為、北海道での米軍との衝突を避けたのでしょう。また当時の米国は北海道の分割統治に反対の立場で、スターリンが米国トルーマンへ北海道占領を断念する旨の解答を送ったのは、占領島で反撃を断念した日本軍が武装解除中の8月22日でした

左が拡大図で、赤い線が終戦後8月15日から9月2日までのソ連軍の攻撃上陸地域です。攻撃は陸上からと空爆によるもので、占守島戦車隊長は自ら突撃して玉砕し、混乱の中、孤立した砲兵隊の一部は8月20日まで撃ち続け、弾丸を撃ちつくして包囲され、全員が自爆しました。全て終戦後の出来事でした。千島、満州などで武装解除した200万人以上の兵士がシベリア送りになり、過酷な労働で35万人ほどが祖国に戻る事はなかった。 北方領土:ロシアの不法占拠の根拠   当時の戦闘:参考記事  占守島砲兵隊の活躍 戦車11連隊の戦い  下左はソ連軍上陸地点の竹田浜、上陸を描いた2枚のロシアの絵葉書 ロシア側資料:ソビエト軍上陸の様子:ロシア語 ロシア側資料:日本軍戦車隊写真、戦車隊配置図など 関連ブログ:歴史を作るロシア

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zentakeda

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2 Comments

  1. よりばば
    Posted 2010年3月1日 at 7:05 AM | Permalink | 返信する

    私の伯父も、ロシアの捕虜になり、何度も「今度は日本へ帰してやる」と騙されながら、極寒の中、少ない食事での強制労働をさせられ、毛布1枚に二人で包まって寝、翌朝、背中の相手が死んでいた事もあったと話していました。戦後高校教師の彼は、国語の授業はソッチノケで、ロシア捕虜体験話で生徒にインパクトを与えていました。しかし、捕虜時代の無理がたたったのでしょう体調はすぐれず、病気がちで50位でで亡くなりました。ところで、ロシアや中国は、アメリカ軍の駐留が撤退したとたん入り込んでくる、と言う事ですが、北海道もですが、沖縄から米軍基地が完全に無くなったら、中国は乗り込んでくるんでしょうか?

  2. 義英
    Posted 2010年9月15日 at 2:01 PM | Permalink | 返信する

    なんでこんなに文字の大きさを変化させるんだろう。まったく無意味で、逆に筆者の意図を削ぐものにしか思えない。残念。

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