龍馬の決死の下書き

 acd1006161236005-p1.jpgkkk 大政奉還の実現に向け、坂本龍馬が土佐藩の重職・後藤象二郎を激励した直筆の手紙の下書きが高知県いの町の民家で見つかっていたことが2010年6月16日分かった。

幕府が開いた会議で大政奉還を15代将軍徳川慶喜に迫るため、京都・二条城へ向かう土佐藩の代表後藤象二郎に、「もし失敗したら、私も海援隊を率いて将軍を襲う覚悟。墓の下でお目にかかりましょう」と激励する内容。後藤は龍馬の大政奉還の考えを取り上げ、建白書として慶喜に提出。慶喜は後藤ら40藩の重臣を集めて意見を聞き、その後幕府は朝廷に政権返上を申し出、1868年4月江戸城開城となり日本初の無血クーデターは成功する。

後藤に渡った手紙そのものは行方不明のままで、写真しか残っていなかった。手紙は縦20センチ、横78センチで、大政奉還前日の慶応3年(1867年10月13日付。大政奉還に失敗し「天下の大機会」を逃せば、薩長から責め(切腹)を負わされると、緊迫した情勢をつづっている。「先生」(後藤)を「生生」と書き損じており、控えにしたとみられる。

龍馬たちの建白書は、隣国中国にまで迫った植民地主義の大国に対抗するには、早急な日本の近代化、政体を変革が望ましいとする考えだった。体制を変えようとするとき、志士たちは決死の覚悟を持って臨み、龍馬もこれに失敗すれば切腹する覚悟だった。龍馬の大政奉還の素案になった 船中八策 には(1867年6月~藩船「夕顔丸」上で作成) 一、有材の公卿・諸侯及(および)天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。( 1、公卿・大名のほか世のすぐれた人材の中から顧問を選ぶこと)一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。(1、上下の議会を置き、すべて公論に基づいて政治を行うこと船中八策現代語訳  など 今も通じる内容がある。龍馬は先の激励文を書いた1カ月後1867年11月15日京都近江屋で暗殺され日本の近代化を見ることなく即死した。龍馬の功績は長いこと評価されず、坂本一族はその後北海道に移住した。歴代の首相を見れば、命がけには到底見えないが、覚悟だけでもこうあってほしい。

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2 Comments

  1. のび子
    Posted 2010年6月17日 at 12:31 AM | Permalink | 返信する

    うわ。。。。。すごい。。。民家って???だれの家やったんやろ??

  2. よりばば
    Posted 2010年6月17日 at 1:07 AM | Permalink | 返信する

    日本は戦争という究極の選択をし敗戦。戦後は思考停止状態。アメリカの指示待ち国家に。日本の政府指導層には軽薄さしか感じられない。押さえつける力が強いほど、跳ね除けようとする力は強くなる。跳ね除ける意欲さえ起す気にもなれない今の政府指導層。しかも、平和ボケで、危機管理能力ゼロ。あの維新の志士の再来は望めそうにもない今、究極の選択、国家破綻して、”IMF”様に、改革を押し付けてもらうしか、今の日本を正気に戻す方法はないような気がしてくるこの頃です。

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